3.11に想う

ちょうど今の会社に転職した翌月だった。白昼、お腹が痛くなり近くのパチンコ屋のトイレで用を足していたときだった。急に気分が悪くなったのか、便座に腰を下ろしたまま目の前がぐらぐらと揺れている感覚に陥った。私は咄嗟に昨日の酒が残っているのかと顧みたが、そんなはずはない。時間にすると1分ほどだったか。左右に揺れる感覚はおさまったが、面妖な出来事に首を傾げてその場を離れて職場に戻ると、同僚たちがざわつきながらテレビに釘付けになっていた。私は肩越しからテレビに目を向けた瞬間、映し出された映像に絶句した。今この同じ日本で、津波で流されていく、民家、車、鉄橋、高台に避難する住人たち。すべてが衝撃的だった。さっき体験した「揺れ」が大阪にまで届いていたのか。そう思うとすでに壊滅した東北地方の状況に閉口するほかなかった。

東日本大震災から13年。今年もテレビなど各メディアで取り上げて、全国のいたるところで震災で亡くなられた人たちに哀悼の意を捧げた。

私は中学生のときに阪神淡路大震災を経験した。震源地から離れた大阪の自宅にいたが、30年近く経ったが、あのときの揺れと恐怖心はいまだに身体に沁みこんでいる。

私は震災から3年が経過したときに、仕事で初めて東北に足を踏み入れた。宮城県の女川町に降り立った私に、どうしようもない現実が突き刺さった。有数の漁港の町でもあるこの地域に震災前の面影はまったくなかった。私は生温かい潮風を嗅ぎながら町を巡り、甚大な被害をもたらした爪痕を確かめるというよりも、記憶として留意することを優先していたように思う。 

そして、今年の元旦に能登半島地震が起きた。また翌日には羽田空港で起きた航空機接触事故。能登半島地震の被災地に救援物資を届ける予定だった海上保安庁の飛行機に搭乗していた6人中5人が亡くなった。胸が痛む出来事だった。

未曾有の自然災害に対して、どう向き合っていくのか。世界規模で言えば各地の紛争や戦争、疫病にしろ、メディアが伝えなければならないことが無限にある。3月11日は、私もメディアに携わる者として深く考えさせられる日でもある。